dods’ blog - 今と昔のノートブック

今の記録は情報提供。昔の記憶は話題提供。気ままに記します。

「コミュ障」の時代の病理を考えた

小学校高学年くらいからでしょうか、自分が言葉というものに関心があるのだと薄々気づき始めました。ラジオのフランス語講座を、分かりもしないのに早起きして聞き始めたことを懐かしく思い出します。

 

もう一つの大きな記憶として、近所の子供が公園の砂場でコマーシャルのセリフを何度も繰り返しながら砂遊びをしていたことを思い出します。今で言う発達障害のカテゴリーに入るだろうあの子の振る舞いが、自分にはとても不思議でした。

 

その後は、自分や親が話す言葉の土着性を過度に意識したり、学び始めた英語の世界がおぼろげながら明らかになるにつれ、言葉を話すこと、聞くこと、読んで理解することなどへ言語への関心が行ったり来たりしてました。

 

ただ、大学のころ出現した村上春樹が、コミュニケーションの困難さをこれでもかと小説で描いた(少なくとも自分にはそう読めた)こともあり、その後自分の関心の重心は、主に書き言葉に移り、そんな状態がずっと続いてました。

 

その後就いた自分の仕事や活動にも、そういった言葉を巡る問題意識が自分のどこかでずっと引きずっている、といってそう間違いではありません。ただ、ここ数年は、話すこと或いはコミュニケーションそのものに関心が移ってきていました。

 

家族のこと、仕事のことなど引金のネタはあれこれ思い当たるのですが、特に、最近訳知り顔で語る人が多い「コミュ障」という言葉への感性的な反発が一番だと思います。理解しずらい相手を「コミュ障」扱いで片付けた気になっている人の多いこと。

 

前置きが長くなりました。最近図書館でたまたま見つけた「現代思想」のバックナンバー。難解なイメージを持っていたこの雑誌、2017年8月号は「現代思想」にしてはトップクラスの分かりやすさです。それどころか、納得行く記事の多いこと。

 

現代思想 2017年8月号 特集=「コミュ障」の時代

現代思想 2017年8月号 特集=「コミュ障」の時代

 

 

言葉のやり取りへの関心、特にその困難さに関心を持っている方は必読です。