dods’ blog - 今と昔のノートブック

今の記録は情報提供。昔の記憶は話題提供。気ままに記します。

佐藤正午「月の満ち欠け」の参考文献で考えたこと

一月ほど前に、佐藤正午の「月の満ち欠け」を読んでいる記事を上げました。読み終わり、直後にもう一度読み直し、という自分にも珍しい愛読ぶりを発揮してしまいました。でも、今日とりあげたいのは、ストーリーが終ったあとの「参考文献」のページ。

 

このページで冒頭に取り上げられているのがイアン・スティーヴンソン「前世を記憶する子どもたち」。これは作中で登場人物たちが何度か話題にしている本であり、当然と言えば当然のチョイス。

 

OEKfanの日々のできごと: #佐藤正午 『月の満ち欠け』

  

調べると、佐藤正午がストーリーの中で登場人物に語らせていた通り、科学的な立場にたって、抑制的に書かれた本のようで、自分も早速読んでみることにしました。

 

でも、今回の記事で言いたいことはそこではありません。この「参考文献」のページには、10年ほど前に自分も読んだ、西研の「哲学的思考」が含まれていて、それに驚き再び読み直してみたことが、今回の言いたいことです。

 

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

哲学的思考 フッサール現象学の核心 (ちくま学芸文庫)

 

 

西研氏のこの本を読んだことは確かに記憶がありました。でも、なぜこの本を求めたのかの記憶はおぼろげです。おそらく、それに先立って竹田青嗣氏の著作から、西氏を知り、読むことにしたような記憶があります。

 

今回、大好きな佐藤正午が自著の参考に自分も読んだことのある「哲学的思考」を挙げていたことは、私にとってはかなりのサプライズでした。でもなぜ?、が最初の感想。早速、改めて読み直してみた次第です。

 

結論を言うと、「月の満ち欠け」に「哲学的思考」がどう反映していたのか、わかりませんでした。まあ、現代の小説の神様とも言われる佐藤正午ですから、たとえマニュアルとして用いていたとしても、2重3重に捻って飛躍させ、その痕跡を残すはずはありません。

 

でもかすかに、今回の小説の骨子というか、そもそもの発想の根底のところで、この哲学書と通ずる精神があるような気がしました。

 

「哲学的思考」自体がかなりの力作で(渡邊二郎氏の解説を読むとよくわかる)、一つひとつのテーマを追っていると自分なんかにはとても処理しきれない学術書なのですが、訴えたい問題意識はとてもよく伝わってきます。

 

その最大の部分は、私なりの理解では次のような主張のようです。

 

誰もが了解する大きな真理を持つことが困難な今の時代だが、だから批判に明け暮れ、他者との合意を捨て、個別の道を進むのではなく、他者との交流を通じて領域ごとに真理を求める試みを行うべきだ。その際に大いに役割を果たすのは個々の「意識」である。各自が日々思う場面場面での「意識」を持ち寄り、語り合うことで、合意できる真理に近づこう。

 

この私流の受け止めを、我が愛する佐藤正午も同じくしていたとすれば、彼は「意識」をキーワードにして、次のように考えたはずです。

 

人が日々生きるなかでの「意識」の在りよう、持ちようを、自然科学が築いた真理の体系からすれば非合理、不合理だと片付けられてしまう部分も含めて丁寧に描くことができ、説得力ある提示ができるのは小説しかないはずだ。「哲学的思考」に書かれていることの半分までは小説が引き受けられる。

 

「月の満ち欠け」の参考文献に「哲学的思考」が取り上げらていたことについて、こんな風に勝手に思った次第です。

 

余談ですが、佐藤正午のことも今回あれこれ調べていて、少なからず村上春樹との比較が語られていました。作風から言えば正反対の二人ですが、すごくうれしい。どちらも理屈抜きに30年来のファンですから。