読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

dods’ blog - 今と昔のノートブック

今の記録は情報提供。昔の記憶は話題提供。気ままに記します。

万年筆の時代は終わったか 2

小説家、佐藤正午のかなりのファンです。デビュー以来、たいていのエッセイとすべての小説は読んでいると思います。謎解きを含んだお話しの面白さ、ハードボイルド調の設定など、良さをあげるとキリがない。

でも一番惹かれたのは、他と違ったから。同じような体験は他には村上春樹を知った時しか思い出せず。他と違って眩しかった、としか説明しようのないところが苦しいところです。

このごろは円熟みが増し、エッセイを読んでいるといい意味での文豪ぶり、つまり職業としての小説家たる徹底した視線を感じ、惚れ惚れします。なのに、自分の立ち位置への逡巡を未だに隠せないところがまたいい。最近読んだのはこれ。

小説家の四季

小説家の四季

 

ここで話題は前回から続くタイトルに絡みます。この作品。小説家のエッセイだけに、いつ、何に囲まれ、どんな風に仕事しているかの話題が満載。何を使って小説を書くか、つまり商売道具への言及もいたるところにある。当然万年筆についても。

先日、本棚からエッセイ集『ありのすさび』を抜き出して、記憶をたどりながらページを繰ると、「もし世の中にワープロがなくても紙とペンがあれば小説は書ける。実際、数年前までは万年筆を使っていたので当時に戻るだけの話だ。簡単に戻れそうな気がする」

と自分で書いているのを発見した。これは1994年に新聞に連載された文章の一節で、当時39歳だった僕にあった自信である。

ところが、

また次に記憶をたどって、エッセイ集『豚を盗む』を再読すると、「いまではもうキーボードがないと小説が書けない、といったタイプの小説家になってしまっている」

という嘆きの一文が見つかった。これは2001年、46歳のときに書いたもので、その時点における僕の変節を示している。

 さらに、

そしていま2012年。(中略)いまの僕には、万年筆を握って原稿用紙のマス目をひとつひとつ埋めていく書き仕事は、それはあえて言うなら、小説家とはなにか別の技術・職種のようにも想像される。昔に戻るというよりむしろ、逆に未知の分野への挑戦、早い話が転職のような困難に思える。

 いずれも、「I 小説家の四季 2012年春」からの引用です(126ページ)。万年筆が一番似合う(と勝手に思っていた)小説家にしてこうなのですから、万年筆は今後、かなり厳しい道を生きなければならいようです。

そういえば、今日職場に地元新聞社が取材に来て、あれこれインタビューを受けました。記者さんの筆記具は当然ながら万年筆ではなくボールペン。自分と同趣味のゲルインキのペンでしたが。ついでにカメラはニコンのD500でした。